法話を読む Preaching

本願を信じる

浄土真宗といえば、親鸞聖人がお開きになった宗旨であるということはご存じのことと思います。
その教えを一言で言うと、『歎異抄十二章(たんにしょうじゅうにしょう)』の、

本願を信じ念仏を申さば仏(ぶつ)に成る

ということになります。
では「本願を信じ」とはどういうことなのでしょうか?

本願とは、
もし私が仏(ぶつ)になって、生きとし生きるものが浄土に生まれされたいという私の変わることのない心を信じよろこび、お念仏申して、もし浄土にうまれることができなかったら、私はさとりを開きません。ただ、悪人と罪人に心が傾きます。

ということで、すべての「いのち」を生かしてくださる阿弥陀如来(あみだにょらい)さまのすべての者を「仏(ぶつ)」(目覚めた人)にしてやりたいという願いなのです。その願いに遇わせていただくことが本願を信じると言うことなのです。

「あたりまえ」のことが「あたりまえでない」こと

「あたりまえでない」が「あたりまえ」だった驚きーと表題の言葉を言い換えることもできます。
この二つの驚きは、実はひとつのことなのです。
さらに言えば、「あたりまえ」も「あたりまえでない」も、とものないと言うべきでしょう。

「老・病・死」を生きる

「私たちは何気なく、「健康ほどありがたいものはない」、「失ってはじめて健康のありがたさに気づく」と口にします。確かにそうですが、では、健康であることは普通のことで、あたりまえのことなのでしょうか。
私たちは、「老・病・死」を生きる身ですから、病気になっても不思議はありません。身近な人の死に出会うと驚き悲しみますが、いつ死んでもおかしくない「生命」を生きているのです。「健康であることがあたりまえ」、「死なないで生きていることがあたりまえ」と思っていたのが、実は「あたりまえではなかった」のです。反対に病気になるのはあたりまえではない」、「死ぬのはあたりまえではない」と思っていたのが、実は「あたりまえ」だったのです。

光に遇う人生

では何故、それが驚きかと言いますと、それは人間の知恵でわかったのではないからです。
私たちのふりかざす知恵は、自分に都合の良いことをあたりまえとし、都合の悪いことはあたりまえではないとし、自分と他を比較し、他を排斥し差別する知恵です。
その自分勝手な知恵が打ち破られたとき、「あたりまえ」が「あたりまえ」でなかったと驚き、「あたりまえでない」が「あたりまえ」だったと驚くのです。

それを打ち破るのは、限りない「いのち」のはたらきです。限りある「いのち」の私がすべてだと思い、そこにとどまって得手勝手な知恵をふりかざし、他を傷つけている、そのことさえも気づかなかった私にはたらきかけて、私の思いを打ち破るのです。
限りない「いのち」から見た私たちの「いのち」には、「あたりまえ」も「あたりまえでない」もなく、「普通」も「普通でない」もありません。あるのは「かけがえのない『いのち』」ばかりです。
限りない「いのち」とは、阿弥陀さまの「いのち」です。その「いのち」が叫び声をあげてくださったのが「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」であり、それは阿弥陀さまの智慧のはたらきです。

阿弥陀さまの智慧のまえには、自分の都合でくるくる変わる人間の知恵など、とうてい通用するものではありません。
人間の知恵で、「あたりまえ」と思っていたものが阿弥陀さまの智慧に出遇うと「それはあたりまえでないんだよ」ときづかされるのです。また「あたりまえでない」と思っていたものを「あたりまえなんだよ」と知らせてくださるのです。
さらに「あたりまえ」も「あたりまえでない」も、「普通」も「普通でない」もない、真実の世界を開いてくださるのです。

それは、限りある「いのち」から抜けきれないで生きている、私たちの日常を超えた彼方から、日常を生きる問題を、根本的に解決してくださる光です。

その光に出遇う人生こそ、驚きの人生なのです。

ありがとう

私の住んでいる村は、春になってもときどき雪が降ります。春の雪はべたついてあまり美しくないものですが、庭の紅梅の上に積もると少し素敵な景色になります。
庭に隅の小さな枯れた古池のそばに、立派な親鸞さまの銅像があり、高く大きな銀杏のきがその上を覆っています。そのわきに小さな紅梅がたたずんでいるのです。

その紅梅がさくころ、不思議とよく雪が降るのです。雪を被った紅梅は、手ぬぐいを姉さんかぶりした娘さんみたいに見えます。そんな紅梅を見るのが母は好きでした。

母がこの村に来たのは、戦後10年ばかりたったころでした。私が幼いころ、なぜこの村に嫁いできたのかと聞きましたら、私の父に連れられて初めてこのお寺を訪ねたとき、ホタルが星のように本堂を包んでとてもきれいだったからだと答えていました。

歌の好きな母でした。古い庫裡は、雨が降るとそこらじゅう雨漏りだらけになりました。父は結核で寝ていたので、雨漏りをバケツや空き缶で受けるのは私たち子どもの仕事でした。いくつ空き缶をならべても雨漏りはひどくなるばかりで、私たちは泣きそうになります。すると、母は雨漏りのリズムにあわせて「雨あめ降れふれ…」と歌いました。私たち兄弟は、雨漏りの夜も楽しく眠ることができたものでした。

そんな母が良く口ずさんだのが、「ありがとう」の歌でした。母は子供だった私に、「浄土真宗は優しい教え、感謝の教えなんよ」と、楽しそうに言い、「正信偈(しょうしんげ)」のお経本を開いて、「「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)」と書いてあるでしょう。無量寿とは仏さまの大きな優しい心のことなんよ。仏さまの優しい心がはたらいて、みんな優しい仏のこになるおしえなんよ。わかる?」と、一生懸命に説いて聞かせてくれました。そんな時の母は本当に楽しそうでした。

仏教は仏になる教え

仏教とは、「仏の教え」と捉えることができます。インドにお生まれになった偉大な聖者、お釈迦様の教えということです。

次に、もうひとつ踏み込んで、仏教とは「仏になる教え」と捉えることができます。お釈迦様は、お経の中に「私の前に道があった。そして、その道を多くの方が歩んでいかれた」といっておられます。ということは、お釈迦様は、自分が作った教えを説かれたのではなく「仏になる道」を、初めて私たちに分かりやすく明らかにされた方であるということができるのです。
「仏」とは、悟りを得たもののことであります。「めざめたる者」すなわち、覚者ということばで表すこともよくあります。仏とは、悟りの世界から、迷いの世界に住む私たちを救うべく、いつも働きつづけていてくださる方の事をいうのです。
そして、仏教徒ということは、仏になる道を、共に歩んでいく仲間ということです。

「仏」の正しい意味が分からないと、仏さまというものは「私とは全く関係のない別の世界にいる偉い方で、私が何かをお願いすれば、それを適えてくれるもの」としか考えず、「何か自分の都合の悪い時だけ、勝手にお願いし、それ以外の時は、仏を思うこともない」というようなことになってしまうのです。信心をしたから病気がなおるとか、交通事故に遭わないなどということは、仏教の本来のあり方ではありません。

本当の信心の姿とは、己が変わってゆくことであります。仏になる道を私自身が歩んで行くということであります。

本当の幸せとはなにか

私たちが幸せということを考える時も、この人間はみんな違うのだということを抜きにしては考えられません。私の楽しみは必ずしもまわりの人の楽しみではありません。また、私が幸せだと感じる生活が、必ずしも他の人の幸せにはならないのです。
私は、本当の幸せとは、自分の幸せが、まわりの人の幸せになるような幸せではないかと思います。私が幸せだと思うことが、まわりの人にいやな思いをさせたり、他の人を傷つけているようでは本当の幸せとはいえないと思うのです。

私たちは自分が楽しくはしゃいでいる時、まわりの人のことが見えなくなってしまいます。また、自分が幸せにひたっているときも、他の人のことが見えなくなります。ですから、私たちの場合はややもすると、私ひとりの楽しみ、私ひとりの幸せになってしまいます。

私の楽しみが、まわりの人の苦しみにつながり、私の幸せが他の人の不幸になるようなことでは、あとあじの悪い楽しみになり、心の底からよろこべる幸せにはなりません。それで私は、本当の幸せとは、私の幸せが、そのまま他の人の幸せになるような幸せではないかといったのです。
それは、こうしたら幸せ、ああなったら幸せということではないのです。幸せを定型化したり、枠にはめることなどできません。また先に考えましたように、人間は、それぞれ何に幸せを感じ、どのような状況に幸せを感じるかが違うのです。

表面的にはどうであろうと、自らの幸せが、他の人の幸せになれば、それは本当の幸せであるといっていいと思います。
ところが、悲しいことに私たちの場合、なかなかこうはなりません。私の幸せが、他人の不幸になったり、反対に、他の人が幸せにひたっているときに限って、自分は不幸だと感じるようなことがよくあります。

なぜ、そうなるのでしょうか。どこに問題があるのでしょうか。どうしたら私の幸せと他の人の幸せが一つになるのでしょうか。このような、私たちにとって一番大切なことを、お説きくださったのがお釈迦さまです。そこでそのお釈迦さまに、また、そのお釈迦さまの教えを、お念仏においてあきらかにしてくださった親鸞さまに聞いていただきたいと思います。